2005年04月23日

「晏子」宮城谷昌光



出合い
作者の本「太公望」を読んで、すごい作家がいるものだと感激し次に手にしたのがこの本す。

着眼点
人の年輪
 本書にはこのような言葉は使われていない。木は季節の寒冷を受ける度に年輪を重ね、毎年幹を太く強くし、やがて内面に年輪という美を刻む。物語全体を通じて私はそんな感想をもった。心が熱くなる本の一つである。司馬遷その人が、「この人に仕えたいと」いう晏子とは「史記」の作者司馬遷が「私はこの人に仕えたかった。」と言った。その意味を探る意味でも読み応えのある本である。
 私はあなたとなんら変わることはない。ただ一度決めた事はやり遂げる。歩き続ければ、目的地に到達する。私は歩くことを辞めない。ただそれだけの違いだ、と。

読後の収穫

気概で切り拓く
 晏嬰には精神の萎えという時がない。窮地になっても、気概そのものが結界のごとく、晏嬰
を守る。またその気概に感激した者には磁力となって魅了される。

理想に打算無し
 集団の柱、土台に位置する者は堅牢でなくてはいけない。理想という箍で組織を組織として動かしていく。人を動かす原動力とは何かを学べると確信します。

歩くことを止めず 
本書はこの一点を言いたいが為に書かれたのではないか。人間みな同じはずなのにどうしてこうも差がつくのか。時間が味方になる人はどんな生き様なのか。この本はそんな疑問に答えてくれる。

後期
前へ...。これは私の母校明治大学ラグビー部の言葉です。この本は私にとって、とても緊張を強いる本でした。晏子自身自分に厳しい戒律を科していたせいもあるでしょう。社稷の臣であり、君の臣ではない。社稷の臣とは社稷を存続させることが出来、上下の本分を弁け、道理をわきまえさせ、百官の序列を定め、その役目をわきまえさせる。晏嬰は当時絶対的な存在の君子に苦言を口上している。この場合死ぬこともある。晏嬰自身が言うように、「和して同せず。」という人に対する仕え方の違いだという。晏嬰自身の社稷に仕えるという気概は局面において人の小心を打ち砕く。あるべき姿を自らで体現していく。高く、永い視点で局面打開に斬り込みをかける。死中に活を求める。晏嬰自身自分自身で判断することが多い程、人の意見を聞かなくてはいけないという経験を若い時期に経験している。「利に幅す」便利さには基準が必要であり、富にはけじめが必要である。欲は充足すると己を滅ぼす恐ろしいものに変わる。自分自身を戒律ともいえる厳しく律していた。
晏子はいう、私はあなたとなんら変わることはない。ただ一度決めた事はやり遂げる。歩き続ければ、目的地に到達する。私は歩くことを辞めない。ただそれだけの違いだ、と。
まさに信念の塊のような人である。信念を貫徹するなら刺し違えても実行する。これは晏子自身、本当に正しいと思うことを実行するのが勇気であると言っている。

posted by 商いの道 at 10:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史小説に学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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