2006年09月03日

播磨灘物語    司馬遼太郎

無私の涯(はて)
戦国期、黒田官兵衛(如水)の物語である。豊臣秀吉の天下盗りを構築した立役者の物語でもある。竹中半兵衛とともに、日本史の天才戦略家の一人にも数えられる。
ご存知の方も多い事でしょう。
明鏡止水
優れた戦略家に共通する事は、流れの変化(兆し)、事実・現象をありのままに受け取る事だ。己の思考や感情立場で歪める前に。そして相手の思考で物事を理解し、打破の持論を組み立てる。支配する者は支配される者の心に聡くなければ、影響を与えられない。
つまり、「理屈を超えた動かし難いその人の価値観」を知る。そこに働きかけねば人は頑なになるだけで心服しない。人は最終的に自分の判断での選択を望む。
自分の気持ちで相手を理解するのではなく、相手の気持ちで自己の働きかけを巧みに変容させなければならない。兵法が、「奇正応変の才」と類稀な奇才と称されるのもこの所以かもしれない。

人間は関係の中で初めて存在する
官兵衛は敵に長い期間幽閉されてしまう。そのため髪が抜け落ち、足の関節も固まって動けなくなってしまう。主人公は、世情と隔離された孤独と無機質な牢獄の中で、自己の命の存在というものと常に向き合わねばならなかった。人間が人間として存在するためには相手が必要なのだと言う。
相手が存在するという前提があるからこそ、自分というものが表現できる。
逆に言えば、自己を見出す為にも、対象となるものが人間には必要なのだろう。
人が生命を維持する上で、コミュニケーションの効用が見直されているのではないかとふと考えざろう得ない。

敵を愛せ
栗山善助の対し、「敵を可愛いと思え」と官兵衛はいう。合戦という殺戮行為が、元来異常な事である。この異常な事を己らとともにやっているのは敵だけであり、そう思えば戦う者にとって敵ほど可愛いものがあるか。と。憎まなければこの異常な行為は出来ない。敵を憎んでは悪いのか」と反論する。「憎んでも良い。憎しみの中に可愛さを入れるように努めよ。その分こちらの丈が伸びる」
官兵衛は、討ち取るにも敵に良い振舞をさせよ、良い最後を飾らせよ。と言う。
人間の戦史は、復讐の歴史でもあり、禍根をどれだけ軽くするかは、後の治世に大きく影響を与える。またこの時代は、敵が味方になり、味方が敵になり人間関係が、錯綜する時代でもある。
また強い怨みや憎しみという心情そのものが常軌を逸した状態とするならば、対極の心情の慈しみを持つ事で、自分の心と行動の中正を図ろうとする官兵衛の哲理なのかもしれない。

後記
作品を通じて黒田官兵衛のそのものは、ひどく透明感のある漢に写った。司馬先生の作品の中では、あくの強い個性(型破り)が多いが、その中では珍しい人物と感じた。
才能は時に有力者に重宝がられるが、時に恐れられもする。
才能の表現の場を得るには、無欲を強いられる時もあるのだろう。
posted by 商いの道 at 06:15| Comment(17) | TrackBack(0) | 歴史小説に学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月09日

「楽毅」         宮城谷昌光

―人がみごとに生きることは、むずかしいものだな―
物語の主人公楽毅のなんとも言えぬ呟きからこの長編物語は始まる。
三十代半ばにさしかかると、こんな主人公の気持ちに、ふとある種の魅力を感じるのは私だけではないでしょう。長編でありながら、一気に読める物語である。

主題
「人が見事に生きるとはどうゆう事か」
作者は、楽毅と物語を通じてこの素朴にして難解な問いに真摯に応えようとしている。
人生という時間と空間で起こる事は、時に自分ではどうにも出来ない大きな力で左右される。主人公の楽毅が生きた時代は戦国時代で国家の興亡が人の人生に陰を落とす。
有能な人物として、評価されつつも国力の乏しい小国故の不遇な前半。楽毅は、国を転々と迷走する。敗国の将は、他国では往々に見下された存在である。
これを現代に置き換えると、自分の活きる場所を求める転職者として、また生き方を貫く為に適地を探す救道者としても見てとれるのではないか。

読後の収穫
「生きるとは起つ事也」
〜証しを創造する〜
不遇な人生を長く過ごすと無力な自分を時に呪う。後世に名を残す人物も同じ人間であり、また有能な分迷いや悩みも深く切ない。多くの人は、中途な悩みの余韻に浸り、自分で自分を呪縛してしまう。その事にすら気付かない人もいる。私もその一人だろう。
主人公楽毅は、低迷の中から一つの哲理を導き出す。生きるとは起つ事なのだと。
「起つ....企てる」と辞書には記載がある。つまり、この世に何かを起す事が生きることなのだ。人には個性がある。何故一人一人が異質なものをもって生まれてくるのだろう。個性を開花させこの世と人に働きかける。それが、自分自身の道を自分で歩むという事なのかも知れない。

「決断」
〜勇気の源は何処からくるのか〜
「勇気とは、人より半歩進み出る事。人生でも戦場でもその差が大きい」(本著より)
人生をより良く生きたいと願うのは、皆同じである。しかし混迷な時代では、現状の自分の進退を決めるには、不確実性が強くつきまとう。未知の領域で困難の片鱗を感じると、人は足がすくむものだ。人の上に立つ立場では、人に影響を与える分責任も重い。。
将来は、約束されたシナリオが展開されるわけではなく、自分で拓き、創造するものであると誰もが知っている。そこに尊さがある事も知っている。では、あの時何故自分は、動けなかったのか。不確実性の排除、見えないものを観る努力。事前準備、先の先への配慮が必要なのではないか。

後記
「家族の事だけを考えて生きてゆけば穏やかかも知れぬ。しかしそれだけの人生だ。他人を思いやり、他人の心を容れて、他人に尽くせば、自分だけでは決してあうことが出来ぬ自分に会える。どちらが本当の自分という事ではなく、どちらも本当の自分である。あえて言えば、自分と自分の間にあるすべてが自分である」(本著より)
楽毅が、最終章で言う言葉である。著者の人生観がここに凝縮されているのではないか。
人生には理不尽な事も多い。努力が実らない事もある。
物語に出てくる人物は、人の真・善・美を鳴らす人もいれば、嘘・悪・醜を放つ人もいる。
様々な人間像を大きな時間軸の流れで観て取れるのが、歴史小説の味わい方の一つだろう。また「死ぬまで生きる。このわかりきったことを、いまようやく、いえるようになった。」後に、楽毅の息子の教育係になる単余の一言が大きく残るのは私だけではないだろう。以上

今回紹介させて頂いた本
posted by 商いの道 at 11:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史小説に学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月04日

「燃えよ剣」               司馬遼太郎

いわずと知れたロングセラーである。大河ドラマでこの本を購入した人も多いでしょう。幕末の過度期は水面下の個性が急浮上する。時代が時の役者を抜擢するように。
「竜馬がゆく」を陽とすれば、「燃えよ剣」は陰である。二つの小説が同時期に同一人物の手で刻まれたのは偶然ではあるまい。

着眼点
その道しか歩まず」〜目的は、ただ一つ〜
この覚悟の先に何が待ち構えているのか。ふとそんな事を考える時がある経営者はいると思う。独創性の優れた土方も考えないこともなかったはずだ。「兵書を読むとふしぎに心がおちついてくる。論語、孟子、十八史略、日本外史など一通りはおそわってきた。しかしああいうものをなまじいすると、つい自分の信念を自分で岡目八目流にじろじろ看視するようになって、腰のぐらついた人間ができるとおれは悟った。そこえゆくと孫子、呉子といった兵書はいい。敵を打ち破る、それだけが唯一の目的だ。(本書より)」

読後の収穫
無学の利」〜常識が人を盲目にする
 土方流、彼は死角を突く(兵書で言えば虚)。まさに勝利を手繰り寄せる軍略家であった。物事を構造的に時間経過をくわえて捉える視点に色彩が映える。それはまず、思考のパズルをそろえるように情報収集をし、芸術家のように戦いを描き、敵と味方を動かす。教養で自分の才能を曇らすことを嫌う。
 この時代に共通していえることは、「自のままでゆく」自分に内沸する個性を時代に撃ちつけた人間集団のドラマであったと言えるのではないか。

見えない力の演出」〜法を肉体に落とし込む〜
彼は、新撰組強化の為に、「局中法度書き」を定める。法の効力は、施行の直後の処分で決まる。つまり、形だけのものか、自分にとって現実なのかと。これが人間集団の基準になるかならないか。個人の感情で左右されず、あくまで法に基づき結論を出す。つまり死。ならず者の結束はこうして現実味を帯び強化されていく。人間の底上げの鍵はこの見えない鉄の戒律で一戦一戦命を賭けさせ、真剣さを演出する仕組みにあるのではないか!持ち駒の憂いをいう零細企業は多い。小さいだけに心理的にも物理的にも距離が近く、本来の厳格な態度で望めない。本著はその悩みに一石を投じるのではないか。

陰濃ければ、光また強し」〜陰陽の演出
 土方は、鉄の戒律者として、闇の執行(脱退者暗殺)を発する役目を行う。そのかわり近藤(局長)には、恩賞付与、激励等カリスマ性ある行動を取らせる。自分が仲間に憎まれる程、近藤は愛され、組織がより強固になる事を見越してのことだ。

後記
 優れた本である。竜馬が個人の世に出る魅力を存分に描いた作品に対して、本著は単に個人のカリスマを描いた作品に留まらず、組織構築論としての示唆も加えている。そうした歴史小説は稀有ではないかと思う。彼は「どうなる」というという考えは無く、「どうしたら」と現実を突破するために思考をめぐらす。
 土方歳三という「一枚の分厚い刃」の結末は悲劇である。しかし、末期の境地は彼にしか解らない。私は、起業した人間が全て成功するとは思わない。現実、多くはこの世からかき消される残酷な場面も知っている。そして再び形を変えて時代と社会に挑戦する人間も少し知っている。私個人としては、そんな人たちが読めば、きっと「本著に書かれていない言葉」を探り当てることが出来るのではないかと感じている。

今回紹介させて頂いた本(アマゾンへリンクされています)
燃えよ剣

参考DVD
(ネットではかなり評価が高いです。私はまだ見ていませんが。)
posted by 商いの道 at 20:02| Comment(9) | TrackBack(0) | 歴史小説に学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月27日

歴史に学ぶを紹介するにあたり

私は、歴史小説に近頃はまっている。ビジネス書のような明確な回答がここでは用意されていない。しかし読み手の心境や、これまで過ごしたキャリアによって、本から得られるものは個々人によって異なる。「賢者は歴史に学び愚者は経験から学ぶ」という言葉がある。私自身やはり経験と照らし合わせてしか物事を判断できない自分がいる。しかし時代に流れがあるように、うねりを読み舵を取れる人間が、新しい時代を産み出す魁となる。歴史にロマンを感じるのはこうした人物の生き様に惚れ、感化されるからだ。時代を切り拓いてほしい。もしくは切り拓きたい人が挫折していた時に、紹介した本が、魂の原動力の一つとなればなおうれしい。強く生きるには、「人間ここまで出来るという」見本があれば心強い。人間そんなに強くないのだから。
posted by 商いの道 at 20:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史小説に学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月25日

「孟嘗君」宮城谷昌光

中国の歴史小説です。物語は、三分の二が風洪(後の白圭)を中心に描かれている。残り三分の一を田文(後の孟嘗君)が活躍する構成です。何故?風洪?なぜなら、田文の命を救うばかりでなく、田文の生き方に大きな影響を与えた人物だからと解釈しています。風洪は侠があり、人の為に何度も命を投じる。
各場面場面の風洪の心境は、窮地の読者の生き方に勇気と決断を与えてくれるのではないのでしょうか!剣士として凄腕な風洪が何故か商いの道を志す。「義を買い、仁を売る。利は人に与えるものだ」と。
 田文は風洪のもとで、人間としての素地を磨いてゆく。その魅力は人才を引き寄せる。田文は裏切りの日常の戦国時代で約束「信」を守ることで、その影響力を高めていく。「人の運命は複雑さをともなっているようにみえるが、単純なものだ。平凡であるとさえいえる。その平凡を全身で受け容れる者こそ非凡といえる。」と。

着眼点
大道を進む勇気と幸せ
人は誰もが幸福を望む。そして自分の人生にその個性をより反映させたいと願う。しかしそのしかるべ き道筋を選んで進むことは容易なことではない。本著に「人は生まれつき均しくない。それがわかっていながら、平等感を欲している。ところが、人は平等でありたいと思いつつ、自分だけは特別である、とおもっている」
世の中は自分だけが存在しているわけではない。この本は人が社会に携わる事は如何なる事かを歴史を借りて投げかけている。

読後の収穫 
情けは人の為ならず
人を助けることで自分も助かる。世の中は広いようで狭く、循環の網が張り巡らされている。長い時間をかけて廻る
座らない学問  
「両目両耳を使え」(内観外観、外聴内聴)
起きている間に起きることは全て学べる。外の変化を耳目し、同時に生身の心に起こる変化にも耳目を傾ければ日々学ぶことが出来る。
与えることは得ること
「財は人に積む」
財を物で形創れば、天災に遭えば弱い。しかし人に財を尽くせば、その恩恵を慕い協力して再び事業を再開できる。
奇跡はすでに準備されている
「良行の積重ね」
人は知らず知らず人の心に足跡を残している。そしてつながりをもっている。信じられない悪事・良事も過去の行い次第なのだ。

今回ご紹介させて頂いた本孟嘗君〈1〉

宮城谷昌光さんの本
posted by 商いの道 at 19:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史小説に学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月24日

「織田信長」山岡荘八



着眼点
乱世という時代認識と乱世終焉の使命に己を捧げた人。
自らを尾張のうつけか天下の主かと謳う。作者は織田信長の波乱に満ちた人生と苛烈な生き様を躍動感をもって刻筆している。この本からは、彼自身の行動が一種の気迫の賭博であり、熟慮の心理戦の連続であることが窺える。当主とは一つの決定、発言、行動が敵味方に有機的にその行動の舵に深い影響を与えている事を胆識している。天才信長と言われる所以として、己の意図と相手の察する意図は、人物の器量に左右され時に、意外な程、異なることを逆利用した。人の誤解と理解を巧みに敵戦と組織強化に意図的に反映させている。
 信長の人材登用とその接し方は非常に独特である。乱世という非常事態は臨機応変の才覚と行動力がものを言う。人の裁量と器量を常に試す。難問、奇問で部下の人才を磨く。これが内部の独特の競争と協力を生み組織に粘質な活性剤をじんわりと浸透させ志将集団の体制を敷いていく。「もし、信長が天下統一をしたらどの領土がほしいか!自由に申せ」と笑い。「そうか、ならばそちにその国をやる。取って参れ」と。琴線に触れる人間は身分を問わず引き立てる。特に秀吉との出会いと登用、用い方と評価は興味深く描かれている。人に惚れるとはかくも楽しい事なりと謳うように。
 また同時に、切れ者の誤解の恐ろしさを光秀を通して描いている。功を立てさせようと重責を与えると、失脚を狙う機会を窺っていると明晰な根拠を探し出し、陰惨な解釈をされてしまう。人の誤解は一種の呪縛として当人の思考を曇らせ歪ませる。感情は思考を凌駕する。天下人信長に光秀はどのように移っていたのだろう。  

読後の収穫

仕組み(システム)を動かすものは、、、文化
人才を築く風土の創出
 信長は人材の発掘にも力を注いだが、登用した人物、側近の人材を、ことさら磨いた。世の中は下克上のなので側近に実力をつけさせることは、ある意味寝首をかかせる行為だったのかもしれない。それを平然とこの時代にやってのけた信長の度量は計り知れない。信長という天才を全員で支えるというより、信長という器の中で、異才者達が凌ぎをけずるような集団だったのかもしれない。

刹那の分岐の繰り返し
 運命は日々の決断次第
 世の中に出来ぬ事はない。出来ぬとはまわりが勝手に決めた事に過ぎない。また自分が決めたに過ぎない。信長は活動の質と量が桁外れに優れている。これは結果をみて過去を振り返ればそうだったといえる。しかし、結果が出るまで、日々人はその決断の意思を強固に持ち続けるかどうか。ここが分岐点である。

感情は思考を凌駕する
 理性は方向を示すが、感情のエネルギーに左右される。作者は本当は何を伝えたかったのだろう。感情 に左右されれば動きは感情のはけ口以上には進歩しない。つまり発展がないということなのか。マイナスの感情は押さえ難く思考を歪ませる。

後記
激烈な本です。結局人は、核心においては孤独なのかもしれない。その時の、人と世に受け入れられ実現されれば正しく、そうでなければ悪かバカ呼ばわりされる。今回は、あるベンチャーの社長が、薦めたのがきっかけだったが、時代を切り拓く者の情熱と孤独を感じました。

「織田信長に関する書籍」
posted by 商いの道 at 20:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史小説に学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年04月23日

「項羽と劉邦」司馬遼太郎



「項羽と劉邦」
項羽と劉邦。一個人としての人格的資質、生い立ちが全く異なる二人を通じて、中国という巨大な大陸の統一までの過程を物語としている。(楚漢の五年にもわたる戦いで中国の人口の半分が戦死したという。)
天才的烈情軍神項羽、底知れぬ虚人の劉邦。両方に通じるのはある種の無邪気さである。では二人の本質的違いは何か。劉備の底知れぬ虚は才人を引き寄せる磁場として結果的に機能した。乱世の才覚を宿した項羽はその才故に才ある人材を登用する機会を逸した。劉備の無礼も自己に欠けた能力の登用意見には真摯に、そして謙虚に受容する。受け入れられるから人は物申す。自分が配下にいる意味を感じる。どの時代であれ自己表現の場を見い出す可能性の高い環境に身を置くのは普遍の心理であり、真理である。

着眼点
 
「大事を成すには独りでは出来ない」という事をメッセージとして受け取れる。人の上に立つものの魅力、人心掌握の魅力とその運用の妙は何かということを考えさせられる。新たに登用される人、古くから仕えている人、様々な角度で局面打開を学べる良著である。

読後の収穫

卒は将の威をまとう
 これは会社の看板を背負う、とも言えるまたブランドともいえる。トップまたは上司の気質や実力はライン部隊の背中を後押しする力にもなり、逆もまたしかり。

才は活き場を求む
 才能は表現を求めてやまない。才能とは究極の個の現れなのだろう。個性をどう活かすかは個人にしても組織にしても永遠の課題なのだろう

今日生きれば明日も生きねばならない
 項羽は、戦そのものは鬼神の如く強い。しかし軍を支える人の食料、兵糧の補給を軽視
した。そのため飢えで兵は衰弱する。ひどく現実的なものだが、今日を乗り切る大変さの先には、明日を生き残る苦労がまっている。

後記
何度も読んだ小説です。これからも読むでしょう。とくに面白いのは、韓信という武将が劉邦と、面談?する場面です。窮地で人を得るとは何か、という面白さを伝えてくれます。また上に仕える人物が変われば、これほど人の才能が開花されるのかという事が伝わってきます。
posted by 商いの道 at 20:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史小説に学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「晏子」宮城谷昌光



出合い
作者の本「太公望」を読んで、すごい作家がいるものだと感激し次に手にしたのがこの本す。

着眼点
人の年輪
 本書にはこのような言葉は使われていない。木は季節の寒冷を受ける度に年輪を重ね、毎年幹を太く強くし、やがて内面に年輪という美を刻む。物語全体を通じて私はそんな感想をもった。心が熱くなる本の一つである。司馬遷その人が、「この人に仕えたいと」いう晏子とは「史記」の作者司馬遷が「私はこの人に仕えたかった。」と言った。その意味を探る意味でも読み応えのある本である。
 私はあなたとなんら変わることはない。ただ一度決めた事はやり遂げる。歩き続ければ、目的地に到達する。私は歩くことを辞めない。ただそれだけの違いだ、と。

読後の収穫

気概で切り拓く
 晏嬰には精神の萎えという時がない。窮地になっても、気概そのものが結界のごとく、晏嬰
を守る。またその気概に感激した者には磁力となって魅了される。

理想に打算無し
 集団の柱、土台に位置する者は堅牢でなくてはいけない。理想という箍で組織を組織として動かしていく。人を動かす原動力とは何かを学べると確信します。

歩くことを止めず 
本書はこの一点を言いたいが為に書かれたのではないか。人間みな同じはずなのにどうしてこうも差がつくのか。時間が味方になる人はどんな生き様なのか。この本はそんな疑問に答えてくれる。

後期
前へ...。これは私の母校明治大学ラグビー部の言葉です。この本は私にとって、とても緊張を強いる本でした。晏子自身自分に厳しい戒律を科していたせいもあるでしょう。社稷の臣であり、君の臣ではない。社稷の臣とは社稷を存続させることが出来、上下の本分を弁け、道理をわきまえさせ、百官の序列を定め、その役目をわきまえさせる。晏嬰は当時絶対的な存在の君子に苦言を口上している。この場合死ぬこともある。晏嬰自身が言うように、「和して同せず。」という人に対する仕え方の違いだという。晏嬰自身の社稷に仕えるという気概は局面において人の小心を打ち砕く。あるべき姿を自らで体現していく。高く、永い視点で局面打開に斬り込みをかける。死中に活を求める。晏嬰自身自分自身で判断することが多い程、人の意見を聞かなくてはいけないという経験を若い時期に経験している。「利に幅す」便利さには基準が必要であり、富にはけじめが必要である。欲は充足すると己を滅ぼす恐ろしいものに変わる。自分自身を戒律ともいえる厳しく律していた。
晏子はいう、私はあなたとなんら変わることはない。ただ一度決めた事はやり遂げる。歩き続ければ、目的地に到達する。私は歩くことを辞めない。ただそれだけの違いだ、と。
まさに信念の塊のような人である。信念を貫徹するなら刺し違えても実行する。これは晏子自身、本当に正しいと思うことを実行するのが勇気であると言っている。

posted by 商いの道 at 10:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史小説に学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「太公望」宮城谷昌光 



表裏の法則を体得した漂流者。始まりは復讐、、しかし、、、
 中国の歴史を扱った小説です。主人公は、商(殷)人に両親を殺害され、同族の孤児とともに旅を続け、商に対し苛烈な執怨を抱く。やがてその思いは商王朝を倒すという明確な目的として誓われ、実現された。
 革命児として時代と大地と出会う人物を望は震撼させる。その意味では幕末日本の坂本竜馬と私は重なる。望は、亡き父の遺言を支えに目的地に子供達を連れて旅をする。そして旅の過程で望自身の気付き、人物との観言のやり取りは、ほとばしる作者のメッセージとして深遠な部分に誘われる。事を興す者の気構えとして本書を読めば活字には書かれていないものも読み取れるのではないか。

着眼点
旅は人を育む 
旅は必要最小限の荷物で移動を重ねる。暮らしの余分なものが取り払われある種の剥き身な状態にさらされる。その分、知覚が増す。「生死の境をさまよいながら生を掴むという体験をしなければ、心胆はすわらない」と。そんな状態の主人公の聴いたことや、気付いたことは鋭敏な示唆をもっていて、時に目が見開かれるような感覚を与えてくれる。

読後の収穫
言葉に命あり
 言葉は聴いたものの心に命として宿る。時にその人個人の命を守り、育てる。日ごろの言動の影響を意識しての行動は難しいが、これもまた道理である。

人は開花する
「素直さ」ありのままで癖がないこと
 歪んだ心は真実を歪めてしまう。「まっすぐにものごとを見れないひとは、どこかで成長が止まってしまう」と指摘する。こどもが瞬く間に物事を吸収し、成長していくのは素直さがあるからでしょう。辛い経験をもつ主人公は人との交わりの中で自分を一つ一つ開花させていく。

森羅万象言葉あり
 先の先への配慮
 複雑系という学問が10年程前クローズアップされた。世界は有機的に関係した仕組みの
中で動いている。
posted by 商いの道 at 10:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史小説に学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「国盗り物語」司馬遼太郎



人生は短い。ならば我に何をさせるのか。ということを戦国時代の二人の両雄の個性と生き様を通じて物語は展開していく。
「国盗り」天下を手中に治めることを野望とし命がけで自分の版図を広げていく。既存の社会的仕組みや制度を破壊し、新しい枠組みを作る様はベンチャー企業や、異業種参入の企業活動が既存業界に揺さぶりをかけるのに似ている。この小説は、二人の革命連歌である。物語は前半を斉藤道三、後半を織田信長として構成されている。

着眼点(ここに注目すると大きな収穫があるのでは)
創意工夫、不可能から可能へ
斉藤道三は乞食坊主からやがて美濃一国の主となり、美濃の蝮の異名をとる。無手からどうやってのし上がったのか。驚くことに彼は、二人の自分を作り二人の人生を同時に駆け抜ける。
読後の収穫
諸事、芸をもって臨む。「芸」すみずみまで行き届いていること。転じて隙がないと解釈
 道三は槍の名手であり永楽銭の穴程の的はどの様な状況でも貫くほどの腕前に自己を仕立てた。しかも最も扱いにくい竹薮の中でさえ苦も無く出来るような徹底ぶりである。目当ての女人が現れれば、女の体の口説き方をその道の手解きを連日に渡り身に付けて臨む。確実に前に進める見込みをもって事に当る。
大事の為に小事を怠らず「策略」望む未来図を手繰り寄せる働きかけ。
道三は濃密に時間を過ごす。目的地から現在の距離と時間を逆算して生きていく。目的と手順、その方法を具体的かつ自然に実行し、布石を穿つ。窮地の退き際でさえ。大胆な生き様には、切り札と奥の手という二重三重の保険?があってこそなのか。
時代は、より良きものに身を任せることを欲する。「諸行無常」荏胡麻から菜種へ
美濃の蝮と恐れられた道三は、ふと老いを自覚する。その感情は、むしろ命の衰え近しという切迫感に近い。老いそのものは至極当たり前であり、その意味では自分は何人とも変わりないただの人間である。婿の信長の会見前、灯火の油は荏胡麻だった。しかし、今は菜種に取って変られた。と感慨をめぐらす。

着眼点
天才の盲点
信長は多感な時期を孤独に過ごす。当時にグレるという言葉はないであろうが。まわりはそれ
に近い白眼で彼を見ている。決して観ているわけではない。信長は針の莚状態で城内、城下の改革を行う。短気者として挙げられる信長が、実は「勝つまで準備する」という慎重さをもっていたことは意外に印象にない。では、信長の鮮やかな成功の軌跡と裏切りの暗殺の間に横たわるものはいったい何だったのか。

天才の奇行は凡人の愚行に有らず  
「うつけ」常識を逸脱した行為。
尾張のうつけ者、後の信長は実利を尊ぶ。徹底した合理性は伝統や体裁という曖昧な隙を許さない。季節を問わず、遠乗り、川潜りは、来る戦陣での地形、気候の変化を肉体で理解する行為であった。常人の見識で天才は測れない。
過去は過去
「自分の先例を真似ない」過去の成功絵図で、将来図は保証されない。昇り調子の落とし穴、人の思考は自分の過去の先例を模倣する傾向にある。しかし、信長は、常に重要な決定を白紙に戻して考えを練る。局面において独創的な発想は、妙技にこだわる専門家というより、むしろ定石を固める素人?に近い。確実に勝つ条件づくりに全てを注ぎこんだ。

人は信ずるものに従う
「人に個情あり」個人が物事に感じて動く心。
積重ねられた感情は個人の判断を時に蝕む。名誉は圧力、褒めれば皮肉と。上を見れば下が見渡せず、下を見れば上に気付かず。

後記本の価値は、手にした人が何度読んだかで決まる。
個人的には、前半(斉藤道三)が面白く読めた。信長の天才、異才さは際立ちすぎて(笑)。道三がすぐ女性に惚れるところは、かわいげを感じさせる。
posted by 商いの道 at 10:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史小説に学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

「竜馬がゆく」司馬遼太郎

人は三度生まれ変わる。(変われる可能性をもつ)。作者は幕末に現れた短い人生の若者を通じてこんなことを言いたかったのだろうか。竜馬は子供の頃泣き虫で、さらに先生にも見放される程物覚えが悪かった。そんな竜馬が剣術を習わされ、免許皆伝をもらい江戸の北辰一刀流の門をくぐる所から物語は急速に展開していく。
作者は竜馬の人間観、人生観、仕事観、女性観などをふんだんに盛り込み、「名著は何度読んでも新しい気づきがある」と私は思った。
幕末の不安定な世情とそこでの竜馬という人間の行動を描く中で、この本は、読み手に多くのを気づかせてくれる。読み終えたとき、「ああ、この人に会いたい」と本気で思ってしまうのは、私だけではないだろう。繰り返し楽しめる本である。


着眼点大事を成す者の思考と行動+α 全てはこの一点に向け作者は語っている。一般的に改革者の成功条件として、優れたビジョン、戦略、情勢判断の的確性、それに基づく指示の与え方等をあげるビジネス書は数多い。しかし、人が強く人の心を掴むのは、理論、理屈の先にあるものが根底になくてはいけない。その中味は意外であり、なるほどそうかと思う。それは一体何なのか。

読後の収穫流れを味方につける「潮」頃合い、時機
竜馬は、時勢を意識して行動する。一見愚鈍、緩慢な姿勢に非難が飛び交う。しかし、ここぞという時機に焦点を当て力を集約させる。「俺のは奇策家ではない。俺は着実に物事を築き上げてゆく。現実に合わぬことはやらぬ。それだけだ。それをなぜ人は奇策家とみるかわからん。」と。
 
常識を、疑う中に種がある 竜馬自身の最大の特徴は、独自性、独創性である。古来多くの人が伝統やしきたりを重んじる中で、「人の事跡を慕ひ
人の真似をすることなかれ」と竜馬自身が言う。事を成すにあたってやり方は一つだけではない。さらに「世の既成概念を破るというのが真の仕事というものである」と。この言葉に触れるだけでも多くのビジネスマンに勇気と決断をくれると信じる。

世に絶望はない
「世に生を得るは事を成すにあり」、、事を成すまで死ぬなと解釈
事業家(事を成すことを生業と定めたもの)には、苦難が付きまとう。天才的竜馬でさえ計算外は起きる。潔さが美学という価値観の中で、竜馬は命の重さを叫ぶ。死ぬという美学より、苦難を闊歩する勇気を持てと。世の中、即自分の力で簡単に出来ることは自分の命を絶つこと。時に人はこの耽美な誘惑に飲み込まれる。
己の命を使果すべき所を見誤るなと。



後記
のめり込む小説である。幕末の不安と過度期を、竜馬という一見のんき者の振る舞いに心を掴まれる。読むきっかけは、先輩で「健路さん」という人がいて、「人を建てる路と書いて健路といいます。」という自己紹介が初めの出会いです。その先輩が「竜馬がゆく」の竜馬のようにありたい。といっていたのが読もうというきっかけです。しかし、全8巻という長編で一度に買えば結構な値段になります。古本屋で偶然見つけ、購入した。しかし、積読状態で3年でした。ふと読んでみるかと初めは挫折した。30を過ぎてまた手に取る。面白い、面白い。結局3回も読んでいた。この本はそんな本です。しばらくしたらまた読みたいです。司馬さんありがとう。

今回ご紹介させて頂いた本
竜馬がゆく〈1〉


坂本竜馬さんに関する本


坂本竜馬さんに関するのDVDです

posted by 商いの道 at 09:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 歴史小説に学ぶ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。


×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。